正直に言うと、その時はパチンコ屋にいたのよ。
昼ご飯を済ませて、家族には「お風呂行ってくるわ」って言って。
正月番組も面白そうなのもなかったし、「初打ちだ!」なんて言って。
「よし!今年の初打ち初勝利!」なんてことを思いながら、そろそろ本当に風呂行かんとなって考えていた時に、
最初の揺れがあって。
確かに大きく揺れたけど、その時は隣の人と
「今の(揺れ)はデカかったね〜」
なんて会話を交わしている余裕もあって。避難する気も全然無くて。パチンコも継続。
そしたら、
また揺れた。
アホやから、「これ動画で撮ったらバズるんじゃね?」って思ってスマホ開いたけど何もできなかった。
揺れが収まる気配が無い。
台の電源も落ちて店内も真っ暗。上から金属製の板が自分のすぐ横に落ちてきた時にはじめて、
「椅子の下!」
って思った。
それまで地震って
「グラグラ、ガタガタ」
ってイメージだったけど、その時は
「グワーッ、グワーッ」って揺れ方だった。おそらく40秒ぐらい。でも体感は3分くらい続く長い時間。
揺れが収まって、とにかく駐車場に出ると木と木がバキバキぶつかりながら目の前の崖が崩れていく。
まわりの人が
「崖!崖!うわーっ。」
って言っている。崖の下には家がある。
家が土砂に飲まれていく。不幸中の幸いか家人は外にいて、無事だった事はその時に確認できた。
え?うちは!?
と思って電話をするも繋がらない。まわりの誰も繋がっていない。次々と家に向かおうとする人達。
それを妨げる道路の崩壊。
正月休みでそれまでほとんど通りのなかった道がざわつき始める。地割れを避けて進む車の渋滞ができはじめる。道が寸断されていて引き返す人もいる。たまたま通りがかった人と一緒にしばらく交通整理する。
その後、普段なら車で15分ぐらいの距離を1時間以上かけて帰宅。
家族の無事を確認する。
家のまわりは地盤が良いらしく、被害は瓦が少しずれる程度。電気は停電。プロパンなので火は使える。たまたま昨日、自分がお風呂によってから帰ったので、風呂桶いっぱいにキレイな水(湯冷まし)はたまっている。
正月用の蓄えもあり、食料は当面持ちそう。ろうそくのあかりで食事はできた。
家族には止められたもの、情報収集のために車を走らせる。
なんだこれ?
想像以上の惨状が広がる。
とにかく情報が何も入ってこないので、携帯がつながる場所を探すもこの日は見つからなかった。
とりあえず家に帰る。
余震があるかもしれないからと、車中泊を提案するも
「大丈夫だろう」
と言われる。う〜ん…
根拠は無いものの、家族との摩擦は増やしたくないのでここは従うことにする。潰されたらそん時はそん時だ。
とりあえず布団で寝れるのは。ありがたいことなのか。
翌朝。あらためて携帯がつながる場所を探す。
そこらじゅうで道が寸断されていて、通れる道をあっちこっちと動き回る。
僕の車の燃料は軽油。うちには農機のための軽油がストックしてあったので、家のガソリン車で動き回るよりも自分の車のほうが良いだろうという判断。
家族のスマホの充電も車でできた。電波無いけど。
あっちをうろうろこっちをウロウロしていると、高台の牧場横を走っている時に突然スマホの通知が鳴る。
おそらく、七尾か富山、新潟方面からのノラ電波を拾ったようだ。ノラ電波なので繋がったり繋がらなかったりする。それでも偶然見つけたこの場所が情報収集のための拠点になった。
壊滅的な珠洲市の状況、輪島の大火災の映像を見て息が止まる。
そんな時、友人、知人からのLINEやメールが続々届いた。全員分は返せないけど、心配してくれている様子が伝わってきてありがたかった。心強かった。
個別対応はできなかったので返信は定型文で返す。
普段北陸は曇り空ばかりなのに、なぜか快晴。
家にいても何もできないので、役場に行く。
- 地元出身で土地勘あります。
- 重機の運転できます。
- 年齢の割には体力あります。
- 知的障碍のある方の支援できます。
何かお手伝いできませんか?
以上を伝えるもボランティアはまだまだ先の段階。目処が立てば連絡をもらうことにして家に帰る。
家族は家の外の様子を知らないので、できる限りの情報を伝える。
家族は食べることができて、寝る家があり、まわりを知らない分だけ、ある意味平和ボケみたいな状況。緊迫感や切迫感はない。
珠洲市の親戚の話題が出るが、連絡が取れないので今は祈るしかない。
1月4日まで家の周辺片付け等をして過ごす。役場から連絡があり、1月5日より避難所のお手伝いに行って欲しいとのこと。
こんな形で母校に戻ることになるとは…
奇跡的に避難所には電気が来ていた。まわりの家は電気がついていなかったから、今考えたら不思議だ。予備電源ってわけでもなかろうに。
自分が避難所に初めて行ったのは1月5日。約200人の方が避難していた。
発災から5日経つと、避難所も最初の混乱が収まりつつある。
要は、避難所のいちばん大変な時の事を僕は知らない。
発災からずっと詰めている役場の人達も被災者の一人。疲れ切っているはずなのに気丈に振る舞っていた。
避難物資が続々と届く。それでも毛布などは不足している。
過去の災害で
「ミルクが無い」
という報道があったのを思い出した。確かにミルクも届いている。でも、ミルクが届いても、そもそも過疎の町には赤ん坊がいない。
若者はいる。避難所は中学校の体育館。もちろん在籍する生徒もいる。震災直後の能登町の犠牲者はたしか6名だったと思うけど、そのうちの一人はこの学校の生徒。中学生。避難所にはその友達もいる。
自分が避難所のお手伝いに入った日(5日)だったか、6日だったかな。
9時頃帰宅しようとしたらなにやら様子がおかしい。おじいさんの様子がおかしいらしい。
すぐに心肺蘇生が始まった。
支援活動に入って下さっていたナースさんが心肺蘇生を行う。
自分は避難所を運営していた同級生といっしょに救急隊を体育館まで誘導する。
AEDのフタを開けるとけたたましい音が体育館中に響き渡る。
懸命に続く救急処置。
まわりの人も気が気じゃない。
…結局、
病院に行ったそのおじいさんが生きて再びここに戻ることはなかった。
携帯の移動基地局が来てくれた。それでも電波は不安定で繋がったり繋がらなかったり。
1月6日だったかな?電気が一部復旧したらしいとのうわさが避難所内で広がる。
家に帰ると確かに電気がついていた。これで竹中家はライフライン復旧。
竹中家は上水道の水源ダムよりも標高が高いためもともと上水道が通っておらず、井戸水が生活用水だった。当然下水道も整備されていないため、自前の浄化槽がある。
普段の不便さがこんな時には一転して利点になる不思議。
半年経った今現在も断水している地域がある事を考えるとなんと恵まれていたことか。
携帯が繋がったら繋がったで困ったこともあった。緊急地震速報だ。
緊急地震速報の音が避難者の携帯から一斉に鳴り響くのは、体験した人にしか分からないであろう恐怖感。
心に直接響いてくる。
そして、直後に襲ってくる強い余震。
完全にパブロフの犬状態に陥ってしまった。
「ガタッ」って音が聞こえたら思わず身構える体になってしまっている。
何度も、何十回もビクってなる。
避難者の方もきっと同じ状態。
巡視しながら声かけする。
竹「今の大きかったね。」「大丈夫でした?」「怖かったね。」「心配な事あったら言ってね。」
避難者の方の心の緊張状態をほぐすことを意識して声かけをした。
あるおばあちゃんが、
「また、大きいの来て、屋根落ちてきたらどうしよう。」
と、言ってきた。非常時に言ってはいけない言葉だったかもしれないけど、
「心配せんでも大丈夫や。それでももしも落ちてきたら、そん時は俺も死ぬし一緒に死のう。」
って言ったら、
「おもしろいお兄ちゃんやな。」
って言って笑っていた。ひとって案外丈夫にできていると思った。
避難所は最初はかなりパニックだったらしい。感情的になる人もかなりいたらしい。
それでも電気と電話がなんとかなると、家の様子を見に一時外出する人も増えてくる。
地割れにハマった車を上げるの手伝ってくれんかとお願いされ見に行くも、これは素人には手が出せないレベル。
こんなケースが結構あった。
発災直後から、ほとんどの避難物資は自衛隊の方が運んでくれた。全国各地の自衛隊駐屯地の方がたくさんの物資を運んでくれた。9日だったかな?お風呂も用意してくれた。
実家にいる間、家族ともいろいろな話をした。過去の事、現在の事、そしてこの先のこと。
北海道に戻る前に父ちゃんと一緒に町の様子をみて回った。
自分は缶コーヒー、父ちゃんはいつものコーラ片手にドライブ。
見える景色だけがいつもと違っていた。
父ちゃんはしきりに
「ありゃ〜…なんやこれ〜…」
を連発していた。
70年、もうすぐ80年近くこの地域の変化を見てきた人はどのように感じているのか…
その後の事は以前アップした「北海道に戻ります(R6.1.12)」に書いた通り。
多分今書けば文面は変わる。
震災から半年過ぎました。発災直後は
「こんな事、この先絶対に忘れないだろうな」
と思っていました。でも実際は、いろんなことに慣れ、忘れていっています。
「忘れてはいけない」というつもりは全く無いけど、それでも忘れてしまいたいような忘れたくないような記憶。
備忘録として上げておきます。